考えるところの最近のブログ記事
仕事が忙しくなってきて、色々と効率化・合理化を図ったり、時間をうまく作らないとやっていけないようになってきたけど、そこで色々と思ったり、反省したり、変えていきたいことを書いてみる。
- 読んでも憶えてない。
本を読んでみるけど、とりあえずばーっと読んでしまうとほとんど頭に残らない。小説だったらまだしも、「これは憶えておこう。」とか思ったものも憶えてない。読み方というよりは、その後の記憶の定着のさせ方に工夫が必要そうだ。これ以前「超勉強学」にあったと思うけど、翌日の朝、一週間後、一ヵ月後という3回の復習が良いらしい。以前みたいにしっかり本の内容をまとめてブログに上げるってのも手だな。うまくまとめられるかが肝だけど、しばらく最近のエントリは目に入るので復習にはいいかも。
- 時間が無い
昔から時間の使い方がへたくそ。最近かなり反省している、というか細切れの時間をうまく活用したいと思ってる。まとまった時間が目の前に無いとなにもやる気が起きない症候群という重い病にもうかれこれ29年ほど掛かっていて、この歳ですがさっくりと直してしまいたい、と思っています。
とりあえず、手始めに「めんどくさいと思う仕事からさっさと終わらせる」を最近実践してる。で、今後やりたいことは、憶えてたい物、読みたい物は電車の時間をうまく利用する(車は控えめにする。)、自分の時間と仕事の時間のけじめをしっかりつける、休むときは休む、って感じかな。
どうにか研究を進められるように頑張ろう。最近やる気が出てきた!
最近選挙もあり、政治に関して色々と話をする人だったり、ブログに意見を書く人が多い。
俺的にはさっぱり興味ない。何でか考えると根強いマスコミ不信があるからかな。
例えば郵政民営化について、選挙について、色々議論をしようとみんなするんだけど、その情報はどこから得たものか?やっぱり新聞やテレビが実際の情報源なんだよね。
だけど、例えば森田実氏のこのコラムを読んでみて、さて、本当に自分たちがどうにか日本をよくしようと思って知恵を絞って、今頭を使ってることに意味があるのかを考えて見てほしい。
小泉政権の超従米主義
このあと2001年春小泉内閣が登場した。小泉内閣は岸、中曽根の「従米政治」を引き継いだが、単なる継承にとどまろうとはしなかった。自発的にブッシュ政権の傀儡政権化への道へ突進した。ブッシュ政権という新帝国主義に積極的に協力し、ブッシュ大統領を後ろ盾にすることによって、国内の反対派を抑えようとした。ブッシュ政権をバックとしたことによって小泉政権は第二次大戦後のわが国の政権としては最強の政権となった。これにオールマスコミが従った。
日本の政治家も行政官も経済界もマスコミも野党も、強大なブッシュ米政権に睨まれたら一巻の終わりである。みなブッシュ政権にシッポを振った。
日本国内のすべての勢力が、アメリカから睨まれないように従順になった。共産党までが反米のトーンを薄めたように見える。
しかし、おびえた者ばかりではなかった。むしろ積極的に日本をアメリカと一体化させようとするアメリカ至上主義者が現れた。彼らが小泉政権の主導権を握った。これらアメリカ至上主義者らはマスコミを支配し、マスコミを通じて日本国民をマインドコントロールしようと努めた。大新聞、大マスコミから、アメリカにとってのマイナス情報はほとんど消された。アメリカにもの申す勇気をもった批判者はマスコミから排除された。
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郵政民営化問題の本質
郵政民営化問題を、小泉純一郎という一人の政治家の政治的執念の面からのみ説明しているマスコミ報道は、あまりにも一面的である。不公平である。真実を隠している。「小泉首相の個人的執念」だけに無理矢理限定し一元化して報道している新聞記者、報道記者、マスコミデスク、ジャーナリスト、評論家は、事実上、嘘をついている。恥を知るべきである。
郵政民営化はアメリカ政府の10年にも及ぶ強い対日要求であるという事実を、政府とマスコミはひた隠しに隠してきた。
アメリカ政府の日本政府に対する「年次改革要望書」——これこそが、日本の構造改革の指令書であり、日本政府はこの10年間、忠実に実行してきた。アメリカ政府の「要望」を受けつける担当官庁である、外務、財務、経産の3省は、すでにほとんど無条件的な受け入れをつづけている。小泉政権の構造改革は、ワシントン製であることは、「年次改革要望書」を読めば一目瞭然である。
マスコミは、「年次改革要望書」の存在を知りながら、これを隠しつづけてきた。いまもなお隠しつづけている。この目的は、小泉政権をあたかも独立国の政権のように見せかけるためだ。同時に、マスコミが、裏側で、アメリカ系の諸々の組織にコントロールされている事実を隠すためなのではないか。
わが日本国は、悲しむべきことに、現実には、アメリカの従属国なのである。政治家もマスコミも行政官も経営者も野党までも、国が主権を失い、他国の植民地と化することが、どんなに悲劇的なことか、考えようともしないのだ。多くの国民は、日本が立派な独立国だと思い込まされている。だまされている。
人は何か困った問題があると、それを解決しようと努力する。まず何が問題なのか、情報を正確に収集し解析し、問題点を明確にした上で解決方法を探す。その情報が間違っている場合、問題点は本質的なものになるはずもなく、的はずれになる。それに対して解決方法を頭を捻っても全く意味は無い。
今、みんなで政治について熱く語ったり、なんだかんだしているのは、俺にとっては正にこのようなことをしているようにしか見えない。もはや庶民には正しい情報を偏向無く取得することは困難である。だからといって自分にそれを変えることはできるはずもない。在日米軍を追い払って、軍事独立でもすればいいんだろうけど、今の世の中でそんなことが実現するはずもないな。
まぁ、TVはたまにお笑い番組だけ見てれば十分。
昔から効率や合理性ばかり追求した挙句、なにはかとなく考えてきたことを書いてみる。
色々勉強したり情報収集したりしてると、最終的には物事をしっかり理解して身に付けることを当たり前の目的にしたりするんだけど、やっぱりそのための本道は「あるものごとに正面から取り組んで、試行錯誤や失敗を繰り返し、それに対する本質的な理解を深めて自分のものとして身に付ける」ことだと思う。
だけど、効率や合理性を追求すると、色々試したり失敗したりするプロセスは、「時間の無駄」とか「失敗ばかりの場合感じてしまう自己の無力さへの恐怖」とかに思えてきてしまって、どちらかというと回避したくなることが多い。
そうするとどういう行動を起こすかというと、「理解して身につけている人に教えてもらう」。すると、とりあえずそのプロセスをすっ飛ばして、「理解」することができる。それは誰かが理解したことを「知ること」であり、その理解を「覚える」ことに他ならない。
確かにこうすることで一応は理解し、覚えることで身に付くのかも知れないけど問題は、その「理解」は他人が行った理解の一側面でしかなく、そのものごとの周辺にある他の要素に関しての相互関係や繋がりの多様性を理解しているわけではない。
あるものごとには他に関連する要素があり、それぞれが相互に関係している。それを色んな角度から視点を変えて自分なりに試行錯誤していく過程で、だんだんとそれぞれの関係が理解でき、そのものごと自体の本質を理解できる。
これに対していきなりある理解、つまり「答え」だけを与えられても、本来の意味での理解や身に付けることにはそのままでは繋がらない、と思う。
どうも正面から取り組むのが苦手な人が自分以外にもいるようなので書いておくと、こういった他力本願の理解の仕方をすると、最終的には何も残らないので返って時間の無駄。どんなに時間が掛かろうとも自分なりに追求して自分なりに理解することでやっと自分のものになる。そして身に付けた知識は自分の財産として残るわけだ。
と、こういうことを考えていると、やっぱり教えるほうってのは難しいなぁ。知識を与えるよりは、自分から知識を追求する態度をどうにか教えなければならないし。このあたりは相手にもよるし、一概には言い切れないし。難しいけどはりきっていこう。
仏教では、人が生き方や仕事・勉強、恋愛について思い迷い、悩むことを「煩悩」という。その数は無数。
煩悩は人間を振り回す。たちの悪い煩悩は「三毒」と呼ばれ、「貪欲(とんよく)」、「瞋恚(しんに)」、「愚痴」の三つ。
「貪欲(とんよく)」は、欲望のままに貪ってやまないこと。人間の欲望とは満たしても満たしても次々に新たなものが頭をもたげてきて、一度絡め取られたら貪欲の道まっしぐら。
「瞋恚(しんに)」は、怒りを露にすること。自分の判断こそが正しいと思い込んでいたり、瞬間的に感情を爆発させても問題は解決しない。怒りの種はどこにでも蒔かれている。
「愚痴」は、不平不満をいうことではなく、物事を正しく判断できず、愚かな言動に走ることである。
煩悩を断ち切れば迷いのない生き方ができる。しかし煩悩の種は尽きることが無い。これに対処する手立てはある。
「物事は心に基づき、心を主とし、心によって作り出される」
あらゆる物事は自分の心が作り出すものであり、あらゆる煩悩も自分の心が作り出したもの、自分の心が表れたものである。とすれば心の持ちようが重要となる。
欲望が湧いてきたら、「これは自分の心が作り出したものに過ぎない。客観的に見ると欲望の対象は実在しない。煩悩なんてただの絵空事に過ぎない。」と思うようにすると、だんだん煩悩は消えていくそうだ。
仏教の教えでした。お釈迦様、ありがとう。
大人になるって何なんでしょ。
28にもなって考えることじゃないとは思うけど。。。
この大学院6年間を振り返ると、惰性に流されて、自分の足で人生を歩まずに、本当にやりたいこととか勉強したいこと、色々諦めてたな。先の結果を考えて、これまでの人生のどこか問題のある部分を挙げ連ねて、勝手に悲観的・否定的になって挑戦することもしなかった。諦めることが大人になることだと思っていたのかな。適当に卒業できればいいと思ってきた。
でもやっぱり理解したいと思うことは理解したいし、勉強したいことは勉強したい、やりたいことはやりたい。今更とか思わずに、無理でもなんで無理か知りたいし、だめでも挑戦してみたい。自分で作った型にはまろうとして、この思いを抑えつけると反発がものすごくて、どこかでやっぱり爆発しちゃう。
純粋に数学が好きで勉強していた中学時代、ギターから音が出るだけで楽しかった高校時代、プログラミングの楽しさに夢中になった学部生時代、なぜか時間が進むにつれて「これだけ時間がたったら、この学年なら、このくらいはできて当たり前」的な型に自分を押し込めようとする。すると今度はその型にはまれないと自分の首が絞まり始めて、自分を否定し始め、本来感じていた純粋な楽しさを忘れる。自己を保てなくなり、そうならないためにその型にしがみつく。楽しみが動機であった純粋な成長は無くなり、必死に自己の正当性を守るために何かを「しなければならなくなる」。そしていつか崩壊する。
どうせみんな平等にいつか死ぬし、だったら死ぬまで「自分らしく」面白おかしく生きるしかない。何の型にはまる必要も無い、何が達成できる必要も無い、誰に遠慮する必要も無い、かっこややり方を気にする必要も無い、結果なんて考えずに今やりたいことをやりたいようにやればいい。そしたら後悔無く死ぬだけだね。
今回の進路は、自分で考えて自分で決めたもの。誰に影響されたわけでもなく、誰の指図でもない。多分小さな決断だったけど、俺にとっては久しぶりに自分で決めた大きくて大切な一歩。これからは自分なりに考えて、自分の枠を広げて、流されないで人生を満喫しようと決めた。
社会を知らない大人になりきれないガキの理想にしか見えないが、そうじゃないと生きてはいけない。貫いてみて失敗してのたれ死んだら、それが俺の人生として受け入れるのみ。
